2006年04月30日

何度でも言う、体罰は暴力だ。

出所したばかりの人が、
反省の色もなくアホな事を言っとります。

戸塚校長:刑期終え出所 「体罰は教育」と今後も活動
(MSN毎日インタラクティブ:4月29日付)


人の命を奪ってなお、理解できてないんですね。
他のニュースで書いてありましたが、
「正しい教育論」って何様のつもりでしょうか?
そんなものは存在しない。
だからこそ誰もが試行錯誤、艱難苦心しているんじゃないか。
この人の言っていることは「狂育論」以外の何物でもない!

体罰に対するワタシのスタンスは以下の記事の通り。
これで言い尽くしているつもりです。

●楽しいはずの野球の話題なのに、なぜ暗い気持ちにさせられなければならないんだ!?(2005年8月25日)
●体罰は「一方的な暴力」(2005年8月25日)

この人は「今後の仕事の邪魔をしないで欲しい」そうですが、
ならばワタシは何度でも申し上げましょう。
体罰で不幸になる人間がいなくなるまで。

「体罰は暴力だ」と。
体罰を受ける側の肉体も心も傷つける行為なんだ、ということを。
posted by 佐々木大悟 at 00:13| 東京 ☁| Comment(9) | TrackBack(0) | 雑記帳 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
「●体罰は「一方的な暴力」(2005年8月25日)」というエントリも読んだ上でコメントしますが、一言で体罰といっても程度は様々でしょう。それを十把一絡げに怪我するほどのものだと言わんばかりの前提で否定論ぶっても説得力ないですね。
最初から体に苦痛を与えて教育するのは間違いだと思うけど、言葉の重みのわからない人もいるわけですから、そういう場合は仕方ないでしょう。
要するに相手に対しての教育者としての愛情があるかどうか、加減を知ってるかどうかがポイントではないでようかね。
十把一絡げに論じるような加減の知らない人は全部否定か全部肯定かしかないんでしょうが…。
戸塚校長も加減を誤ったことには異論はありません。
Posted by 通りすがり at 2006年04月30日 03:13
>通りすがりさん
コメントありがとうございます。

人間ってのは完璧ではない。
判断も誤れば、感情的にだってなります。
当然中には「加減の知らない人」だっている。
親兄弟であろうが、プロの教育者であろうが、
それは同じです。

だから、
「程度が軽ければ」「愛情があれば」
というエクスキューズの余地を残すことは
エスカレートの危険性を孕むリスクになるし、
相手が未熟であればこそ
「人を従わせるには暴力を使っても良い」
というメッセージに取られかねない行為は
厳に慎まれなければならない、
というのがワタシの考えです。

少なくとも体罰がどうしても必要だというのなら
体罰の本質は暴力であるということを理解し、
体罰を受ける側と同等かそれ以上のリスクを
負った上で行なわれるべきではないでしょうか。
Posted by 佐々木大悟 at 2006年04月30日 09:03
RSSで配信された見出しに興味を持って覗いただけで、他の主な記事は私の興味の対象外なので本当に通りすがりなのです。なのでこのままのHNで続けさせていただきます。

> エスカレートの危険性を孕むリスクになるし

この論法でいくと、犯罪を誘発する危険性を孕む理由で、ゲームもコミックもポルノも犯罪小説もすべて悪ということになります。(たとえ冗談であっても)犯罪をしようかと相談しただけでも逮捕されてしましいます。
私は度を越したら度を越したことについて責任を追及すればよいと思うだけで、度を越す可能性があるというだけでその行為そのものを問題視するのはどうかと思います。
しかし国家権力による実力行使については話は別です。


> 相手が未熟であればこそ「人を従わせるには暴力を使っても良い」というメッセージに取られかねない

「教育」でそのようなことがあるとすれば、教育の仕方が間違っているのでしょうね。言うまでもなく服従させることと教育は違います。


> 少なくとも体罰がどうしても必要だというのなら

どうしても必要とは全然思いません。相手が教育指導する立場の人間の適切な指導を素直に聞ける性格であれば体罰の出る幕なんてありません。


教育・指導には様々な形があります。何を教えるか、教える者と教えられる者の関係、コミュニケーションの密度、教育対象者の年齢や成熟度などで取るべき方法は千差万別です。効果的な方法もその都度変わるでしょう。つまり一般論や杓子定規的な線引きや法での判断にはなじまないものなんです、そもそも。
Posted by 通りすがり at 2006年04月30日 18:32
>通りすがりさん
お返事ありがとうございます。
HNの件は了解しました。

>ゲームもコミックもポルノも犯罪小説も
いや、その比喩は当たらないでしょう。
ゲームをする、本を読むという行為と、実際に自分の身体を動かして暴力や犯罪に走ることとは全く別の次元の話ですから。

>度を越したら…
度を越す・越さないの適切なラインなんてあるのでしょうか?過去に問題化した体罰の中には「軽く叩いたつもり」が、骨折や鼓膜損傷に至った例も決して少なくありません。
それと、体罰を振るう側の人間は基本的に「指導者」「先輩」という強い立場に身を置いているわけです。そのことが体罰を振るわれた側が「責任を追及す」る場に体罰を振るった側を引きずり出すこと自体を困難にするのではないでしょうか?

>教育・指導には様々な形
それは確かに仰る通りですが、だからといってその選択肢に暴力を含めて良いという理由にはならないとワタシは考えます。
教える側の考え方や知識に誤りがある可能性もあるし、単なる価値観の相違が指導を困難にするケースもある。
暴力を使ってその誤った知識に基づいた指導や指導者側の価値観を押し付けてしまう事の方が問題ではないでしょうか?

人間は誰しも矛盾を抱えるし、
必ずしも正しい知識を身につけられるわけでもないし、
偏った価値観を持ってしまう危うさは持っているし、
感情に流されて手が出てしまうこともある。
そういう弱さを持った人間が、
例え「指導」という名目があったとしても
安易に暴力を振るってよいものでしょうか?
ワタシが問いたいのはそこなのです。
Posted by 佐々木大悟 at 2006年04月30日 23:01
何度も失礼いたします。

> ゲームをする、本を読むという行為と、実際に自分の身体を動かして暴力や犯罪に走ることとは全く別の次元の話ですから。

ここはエスカレートすることによって他人に害を及ぼす危険性のある「こと」は厳に慎むべきというお考えから導かれる別の事例を出したまでで、行為の性質(能動性とかでしょうか)について書いたものではありません。もし反論があるのでしたら、同じ論点に沿ってお願いいたします。


> 度を越す・越さないの適切なラインなんてあるのでしょうか?

個別の事例で判断されるべきでしょうね。あくまで「場合」によるのであって、「相手」によるのはないですよ。同じ人間でも体罰を必要とした時期があっても、ずっとそうとは限りませんから。骨折や鼓膜損傷になっているのに「軽く叩いたつもり」というのは単なる言い逃れで、度を越した体罰なのは間違いないでしょう。その言葉を額面どおりに受け取るほど痛みや人の体について鈍感な方でもないでしょう。


> 体罰を振るわれた側が「責任を追及す」る場に体罰を振るった側を引きずり出すこと自体を困難にする

体罰自体の是非の問題とは関係ないでしょう。体罰でなくとも指導の有効性について教えられる側が異議を唱えるのは困難なことが多いですよ。


> その誤った知識に基づいた指導や指導者側の価値観を押し付けてしまう事の方が問題ではないでしょうか?

言葉による指導の場合にも当てはまることではないですか?体罰固有のことではないでしょう。


> 例え「指導」という名目があったとしても安易に暴力を振るってよいものでしょうか?

安易に体罰を与えてよいわけがありません。私は、時として体で教え込ませることも有効な場合もあるというだけで、最初から選択肢にいれるべきとも思わないし、また一方で体罰自体を悪とも考えないだけですから。
ちなみに「言葉の暴力」がある一方で、度を越さない体罰は「暴力」とは考えません。行動の形ではなく性質で判断すべきと考えます。
Posted by 通りすがり at 2006年05月01日 00:47
>通りすがりさん
コメントありがとうございます。

>エスカレート
最初の返事でワタシの書き方が下手でした。すみません。

>だから、
>「程度が軽ければ」「愛情があれば」
>というエクスキューズの余地を残すことは
>エスカレートの危険性を孕むリスクになるし、

本来ここで一度文章を切るべきでした。エスカレートの危険性があるから「慎むべき」という論旨ではないんですよ。
誤解させる書き方で申し訳ありませんでした。

>「軽く叩いたつもり」
十中八九は仰るとおり単なる言い逃れでしょうが、運が悪いと些細なことでも重傷になってしまうケースもあるでしょう。
ワタシ自身、街中でよそ見してぶつかっただけで相手に全治半年の重傷を負わせてしまった経験があります。人体って案外脆いんですよ。
だから100%言い逃れと見ることはできません。

残りの部分については議論が平行線のような気がします。ワタシは「体罰」という名前をつけようと暴力は暴力だと思うし、たぶんそこは譲れないでしょう。

「暴力」というのは「毒」のようなものです。
基本的には人間に害を及ぼすもの。ただ、使いようによってはアルコールのように嗜むこともできる。それが一定のルールの下で行なわれる種々の格闘技だと思うのです。
体罰というのはその暴力を「薬」として使う行為であって、上手に使えば特効薬になるのかもしれないけど、誰しも適切に扱えるわけではない。
安易な気持ちと準備で「毒」は使うべきではないのです。
Posted by 佐々木大悟 at 2006年05月01日 10:04
貴殿の基本的な考えもわかりましたし、それに対する私の考えも今回のコメントで言い尽くした感があるので、私の方からは今回で最後にいたします。

> 十中八九は仰るとおり単なる言い逃れでしょうが、運が悪いと些細なことでも重傷になってしまうケースもあるでしょう。

転んで打ち所が悪かったかのようなことが体罰にあってはならないでしょう。もし本当にそのようなことが起きたとしたら、そんな状況で体罰を与えること自体が行き過ぎ、過失なわけです。過失が起こり得るから絶対にダメというのはゲームやコミックの例で私が言ったことと同様のことです。それを是認するお考えだとしても、それはひとつの考えとしてアリだとは思います。


> 残りの部分については議論が平行線のような気がします。ワタシは「体罰」という名前をつけようと暴力は暴力だと思うし、たぶんそこは譲れないでしょう。

説得力のある根拠を出せないことを「平行線」と表現するのは賛同できません。根拠なんかないがダメなものはダメなんだというなら、それは「相容れない態度」としてアリだとは思いますが。


> 上手に使えば特効薬になるのかもしれないけど、誰しも適切に扱えるわけではない。安易な気持ちと準備で「毒」は使うべきではないのです。

まったく同様のことが体罰を絶対に用いない指導にも言えると思います。この場合「薬は毒にもなり得る」というですが。褒める指導、長所を伸ばす指導は相手の性格や指導する内容によっては非常に効果的です。しかし時として対象者をスポイルし周囲の人間の害となる結果にもなるし、悪い部分を改めさせるための指導には向きません。言葉による指導でも、叱る場を考慮するとか、人格否定をしないとか、留意すべきことはいくらでもあります。どんな教育指導の方法をとるにせよ、安易に臨むべきでないのは同様です。


このように体罰を絶対悪とするためにいろいろな根拠を示されるわけですが、それは様々な事柄にも当てはまるのみならず、相対する価値観にも同様に当てはまってしまうわけです。これでは説得力のある根拠とはいえません。少なくとも私は説得されません。もし貴殿が私の上司で私を指導する立場になったとき、果たして有効な指導が出来るのでしょうか。職務命令で強制的に何かをさせることも可能ですが、それは力や立場ににモノを言わせて相手を従わせると言う点で、体罰と本質的に変わりありません。


暴力に対する生理的嫌悪は人として大事な感情だと思いますし、それはずっと持ち続けるべきと思います。しかし「体罰は絶対悪」というのは、それもまた「ある価値観」に過ぎないという自覚は必要だと思います。「体罰こそが理想的な教育方法」という価値観とはまったく逆の内容なだけで、両極端にある端と端に過ぎません。
Posted by 通りすがり at 2006年05月02日 00:39
>通りすがりさん
では、ワタシの方からも最後に一言二言。

確かに「言葉の暴力」「毒舌」という言葉があるように、ワタシが挙げた根拠の多くは言葉や職務命令による指導にも当てはまるのでしょう。

ただ、それらと体罰との間には二つの決定的な違いがあります。

一つ目は物理的な破壊を伴いうること。人間は自ら望まずして過ちを犯すものです。どんなに注意しても「殴る」などの行為には相手を怪我させるリスクが伴います。

二つ目は痛みという動物的感覚・恐怖心に訴える手段であることです。そういう手段で理解させる・従わせるという行為は教育・指導ではなく「調教」です。それは同じ人間に対してとるべき態度ではない、とワタシは思います。

それと誤解されているようですが、ワタシは体罰を100%否定しているわけではありません。
ただ、そのリスク等を考えれば「最終手段」という位置づけとするのが望ましいし、「最終手段」であればこそ安易に用いず、厳に慎むべきだと思うのです。

人が人を殴る。そこにどんな理由があり、どんな名前をつけようとその本質は暴力です。「最終手段」として「体罰」を用いるとき、そこにはいかなる結果に対しても責任を取る覚悟があるべきではないでしょうか?
Posted by 佐々木大悟 at 2006年05月02日 02:26
最後と言いながらもう一言だけ。

指導者の多くは普通の人間です。聖人君子なんて世の中にはそうそういません。指導が上手くいかなければイライラもするでしょう。これが昂じて思わず手を出してしまうことは珍しくないでしょう。

そこに指導としての効果や、怪我をさせない加減の入る余地はあるのでしょうか?

「体罰は暴力でない」という言い方は、このような暴力の隠れ蓑として利用される余地を作ってしまうと思うのです。

自分を抑えきれない弱さ。
過ちを犯してなお保身に走ろうとする弱さ。
それは多くの人が大なり小なり抱えています。
そんな弱さを持つ人間が
「これは暴力じゃない、体罰だ」
と言って拳を振るうことは
ワタシの目にはとても危険に見えるのです。
Posted by 佐々木大悟 at 2006年05月02日 02:49
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